著者
丸山 松彦
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.4, pp.13-24, 2012

本論文は映画《トイ・ストーリー》のキャラクターが、オモチャらしい人格を手に入れる過程を考察することで、アニメにおけるキャラクターはアイデンティティを獲得できるのかを明らかにしたい。あるいは、獲得できない理由を明らかにしたい。 また《トイ・ストーリー》には作品世界と現実世界を巧妙につなぐ仕掛けが施されていることにも注目する。それはアニメの中でキャラクターはオモチャであるが、現実世界でもオモチャとして販売されていることである。これは他の作品における、オモチャとキャラクターの関係とは異なった特異な状況といえる。 本論文はこの2点を軸に考察することで、キャラター、オモチャがいかなる関係をもち、どのように作品とその世界観を構築しているかを明らかにしようとするものである。 なお筆者は博士論文において写真における差異の問題について論じたが、本稿ではこの理論をアニメの分野に適用するものとする。
著者
法月 敏彦
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-11, 2015

既刊研究書等によれば、明治期の演劇改良運動・演劇改良論とは、東京における演劇改良会に関する記述が大部分を占め、その演劇改良会について、例えば秋庭太郎は「自然と中止されて了つた」運動であったという。また、同時期の大阪における演劇改良に関しても、「東京のそれに刺戟されたものであつたことは言ふまでもない。」としている。 しかし、このような記述は、以下に述べる理由から、不十分かつ誤解が含まれていると考えられる。まず、当時、大阪に存在し、実態としては東京よりも早期に活動を開始し、「東京のそれに刺戟されたもの」ではない大阪演劇改良会への言及が少ない。また、主導であった東京の演劇改良会はほとんど失敗に終わったであろうが、官民協同の大阪の演劇改良会は角藤定憲らの若者を奮い立たせ、新しい演劇の発芽を準備したのであり、そういう事実に関する正しい評価がなされていないのである。 本稿では、従来、等閑視されることの多かった「大阪演劇改良会」に焦点をあてて、さらに、今まで史料として採り上げられることのなかったと考えられる大阪における主唱者の一人、丹羽純一郎訳述『英国龍動新繁昌記』(1878年刊)などを拠り所に、日本近代演劇史の実態を明らかにしたいと思う。
著者
加藤 悦子
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.63-71, 2017

クロード・ドビュッシーが交響詩《海》楽譜(初版)の表紙画に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の図様を転用したことは、ジャポニスムの好例として著名である。それは単なるエキゾティシズムによる選択ではなく、日本美術の重要な一特質である遊戯性を感知した上のものであったことを、カミーユ・クローデルの彫刻作品「波」との関係から推定した。
著者
小山 正
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.5, pp.39-45, 2013

玉川大学芸術学部では、10年間アメリカ・ワシントンD.C.及びフィラデルフィアでの桜祭り公演を中心にアメリカで和太鼓と創作民族舞踊の公演を行っています。今回、玉川学園および玉川大学における海外公演(演劇・舞踊に特化)の軌跡についてのレポートです。
著者
平高 典子
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.7, pp.13-27, 2015

幸田延は、1909 年11 月から1910 年7月の間、東京音楽学校を休職してヨーロッパに滞在し、主にドイツのベルリンとオーストリアのウィーンで、また帰路フランスのパリとイギリスのロンドンで、音楽事情を視察した。その間したためられた日記から、演奏会鑑賞、音楽学校及び学校の音楽授業の参観、レッスン受講、音楽関係者との交流など、多彩な活動の内容が明らかになった。 日記における音楽関係の記述からは、彼女が、深い音楽性・的確な批判能力・過去や同時代音楽に対する豊富な知識と洞察力を持っていたことがうかがえる。これらの能力は、滞在によってより強まったであろう。また、当時彼女が置かれていた音楽界は楽家のネットワークというべきものが機能しており、そのネットワークと関わる音楽家たちと交流していたことも判明した。 帰国後延が東京音楽学校に復帰することはなく、ヨーロッパの音楽や音楽教育をライブで体験して得た知識や批評能力が十全に生かされたわけではなかったといえよう。
著者
多和田 真太良
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.8, pp.29-43, 2016

「ハラキリ」という単語はどこでどのように流布していったのか。19世紀末から20世紀初頭にかけて隆盛を極めたジャポニズムの舞台芸術の中で注目されたのは、キリスト教の下では禁じられた「名誉の自死」という概念だった。しかし舞台で再現されるのは、川上音二郎一座がアメリカで実際に切腹の場面を演じてからである。それまで理解不能であるがゆえに滑稽に描かれることさえあった「ハラキリ」が、音二郎や貞奴によって実に劇的で凄惨な描写として演じられた。「ハラキリ」は自然主義演劇に飽き足りず、新しい表現を模索する20世紀演劇の理論家たちに強い影響を与えた。ベラスコは『蝶々夫人』の結末を自殺に書き換え、続く『神々の寵児』では切腹する武士を描いた。音二郎一座の演技は強烈なイメージを与えた一方で、ジャポニズム演劇に潜む多様性の芽を摘むことになったともいえる。以後の作品は「ハラキリ」のイメージを払しょくすることが困難になった。「ハラキリ」はもはや不可解な日本の風習というより、ジャポニズム演劇にエキゾチックな効果を与える一つの重要な表現として定着していった。